またね!
英明と会ったのは三年、いや、もっと前だったか。久しぶりに会えば、見る影もないほどにすっかりやせ衰えてしまい、既に死期を迎えていることが伝わってくるほどに変わっていた。
「お前に(墓守を)頼んだ墓に俺も入って良いか?」
7月10日、寝支度をしていた22時過ぎ。癌に罹患したことを自ら私に電話を掛けてきた。その声は肺炎でも患っているかのように絞り出された声だった。
「肺癌になったんだ。話がしたい。来れないか? いつなら来れる?」
一方的に話す、細かく切られた単語が切実度を増した。
次男である私の父が33歳で逝去し、長男が去り、本来は今井家の当主にならなければならない男だった。が、私に墓守を押し付けて、盆暮れ彼岸の挨拶も菩提寺にせず、伯母の事態を知りながらも見舞いひとつ来なかった男だ。私から連絡を取る必要はないと私も考えていた。そいつからの数年ぶりの電話がそれだ。
人は死んだら四十九日を過ぎて、誰もが仏になるための修行に入り、俗世と離れて行くという。最早、俗世の恨みつらみは無縁のものとなる。
「何を言いだすかと思ったら、そんなことか。英さんはうちの本流、何を躊躇う必要があるものか。みんなが先にいるんだ。遠慮は要らないよ」
許す許さないではない。見送るということがどういうことなのかを私に知らしめた。
「俺はいまでも覚えているよ。グリーンの上でラインが分からなかったら、マーカーの後ろからカップを見ろって教えてくれたよな。いまでもそれ、やることがある」
2017年2月に罹患していることが分かり、2018年6月上旬までゴルフとボーリングをしていたという。それがいまでは医療麻薬の量が日増しに増えているそうだ。残念であるが、それが寿命なのだろう。もう激しい痛みからは解放してやって良いはずだ。
罹患して、手の施しようがないと言われて、一年四カ月。死期の淵を歩き続けた。私と出会った時にはまだベッドから起きてリビングに移動していた。トイレもシャワーも自分で済ませていると言っていた。ただ、水も飲めないほどに気管や食道を癌細胞で塞がれて、僅かに気道が確保されているぐらい。氷を口に入れ、溶ける滴りで喉を湿らそうとするが儘ならず。タオルに吐かざるを得ない。これではこの暑さに耐えられないだろう。
七十一年間を生きてきた最期をどうするのか。彼は墓の心配をしていた。私と話をしたことで解決することができたと彼は痛みを堪えていた顔を綻ばせて一言を絞り出した。
「話ができて、良かったよ」
交わした言葉はそれが最後となった。順番とは言え、言葉を交わせなくなることは寂しいものだ。
私はさよならと言わない。またねという。そう、私はまたねと言ったはずだ。が、その日から一週間も経たずのこと、思いは儘ならず終わったが、彼の思いを繋げることができたことはお互いにとって良かったはずだ。来世でまた会おう。またね!
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