子供は親を選べない・目黒事件
その昔、私も継母から折檻を受けた時代があった。継母と父の間に生まれた弟をいじめるからだ。
理由があるから折檻を受ける。糸井重里氏も同じような境遇だったことを聞いたことがある。彼は刃向かうのではなく、折檻を受けないために気を回すことを選んだ。
それで思い出すのは三島由紀夫の仮面の告白。告白しているのは仮面を被った私なのか、それとも語り部の私なのか。その本から知識を知恵にするための生き方を学んだ。
昔から人は多面的で、普段、反っくり返って威張り散らしている人間が上席者には米つきバッタになる。人の芯とは、信条とは何なのか。私はそんな大人が嫌いだった。
その意味では尾崎豊に共感した。最後の姿はあってはいけない姿だったかもしれないが、彼が命を紡いで作った歌は大いに共感できる。
子供は親を選べない。親は子供を選ぶことができる。それが子供を自分の[モノ]として考えてしまうところなのか。その答えを出せないでいるが、自分に子供ができた時からか、その疑問を抱え続けている。
きのう、2018年6月6日、報じられた目黒事件。毎日新聞の記事をシェアしてくれた高祖常子さんとはもう30年来の付き合いだ。私が考えている量よりも遙かに考え、行動に移し、実践して、伝えている。想像を超えるものが多々あることだろう。その上で彼女は「怒鳴る、叩かない子育て」を提唱している。
それでも人は神ではない。間違いも犯せば、勘違いもする。感情を抑えられずに喚く、叫ぶ、時にその一線を越えて向こう側に行ってしまうことがある。
初犯で情状酌量の余地がある場合、懲役8年から13年。刑期を納め、還ってくる。だから、それを許すということができるのか分からない。
私の生母は台湾からの出稼ぎ労働者が運転するオート三輪に私と一緒に跳ねられた。私は残り、母は逝った。その時、母は28歳。この世への計り知れない未練があったことだろう。
その台湾からの出稼ぎ労働者は、過重労働で居眠り運転をしてしまったのだそうだ。薄汚れた箱に入れた小銭を父の前に差し出して、頭を地べたに擦り合わせて謝ったそうだ。
私はその人の名前も、過重労働を強いた人も知らない。私の中で昇華するしかない話だが、まだ昇華できずにいる。
生まれて60年になろうとしているのに、その気持ちは未だにズルズルと音を立てて引き摺っている。死んでしまった、声も知らない母を追っている。
子供は親を選べない。
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