免許返納・世間は森友問題で大騒ぎだが
世間は森友の書き換え問題で騒がしくなっているが、きょうはほぼ一年以上抱えている逡巡問題をやっとまとまったかなという気がするので一石を投じることにした。
まずね、客観的に物事を見ろと強いることは、女の子に女らしく、男の子に男らしくということと似ている。難しいから強いることだとする。
体が思ったように動かなくなって来たなあという実感を齢六十にして思う。100mダッシュが50mダッシュになっている。走れなくなったことで、それは如実となる。
目や耳、反射神経も疑わしい。そうなると自分が信じられなくなる。そんなことはないと否定しても、他者から見ればそれが事実なのである。
高齢者の交通事故が増えている。自分で走る訳ではないから息切れがしないし、ちょっとした誤操作をしても車は文句を言わない。
が、視野が狭くなり、反射神経が悪くなり、認知、判断、行動という結果が事故に繋がらなければ良いが、それさえも怪しいものとなる。
免許の返納については、さまざまな課題がある。が、いきなり返納という話になるからややこしくなる。
例えば、八十の誕生日を超えたら、毎年、自己認識のためのテストを受けるということを法制化したらどうだろうか。人間の体を過信しないということ。
認知症のテスト、教習所コースでの実地テスト、変わった交通法規のテストなど自分を客観的に知るためのテストだ。それによって自分の運転能力を知ることができ、返納を考える機会になるはずだ。
ただ、側面として助成が必要になる。例えば。高齢者手帳を出すことで、タクシーは半額。目的地に誰かがきちんと送り届けてくれることに制度化する。
ただ、都市部は良いが、限界集落だったらどうするんだという話も出て来そうだ。
これは返納を強いるものではない。返納を考える機会として、自分の能力を知るという機会を設けるということだ。
可愛い孫の将来を考えてという話だけではなく、自分の能力を知ることで危険回避ができるようになる可能性が高くなるという話。都市も限界集落も関係ない。
が、側面に無理がある。行きたいところには自分で運転をしたら15分で行けるところに、車を呼んだら45分も待たされ、結果、一時間も掛かる。これをどうするかという課題は残る。
だから、免許の返納を一律にしなくても良いだろう。できるところからやる。強制しなくても良い。考える機会を持つことが大切だという話。
高齢者の経験と尊厳を大切にしながら、自己認識を改めて貰うという話だと考えていただきたい。
AI搭載車が近い未来には登場する。が、簡単には行かないだろう。解決しなければならない課題が山積している。まだ時間が掛かる。結果、自分で運転することも併用することも当然出てくる。だから免許の返納という論点は変わらない。
その前に、悲惨な結果しか残らない交通事故を減らし、高齢者も安心して暮らせる社会にしなければならないはずだ。あの世もこの世も金次第なんて詰まらないだろう。
もっと頭の良い政治家や、いるかいないか分からないが、AIの進化に旗振りができる政治家を送り出さないと駄目なのだろうか。
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